香りの軌跡

仕事が終わり、オフィスから外に足を踏み出す瞬間、タスクからの開放感とともにマスクを外す。そのとき、夜の街に漂う香りが高校時代に友達とか彼女と遊んだ帰り道の情景を思い出させて、大阪の風景が恋しくなる。

 

五感を駆使して、私たちは一日一日を身体全体で感じながら生活している。特に経験上、嗅覚の記憶は長い年月が経ってもあまり薄まることはなく、特定の香りは鋭く過去を呼び起こす。

 

しかしコロナ禍の数年間、マスクはこの私たちの嗅覚を封じ込めてきた。この期間の私たちの思い出。それがどんなにエキサイティングで、平和的で、もどかしくて、涙に濡れるものだったとしても、嗅覚が塞がれていれば、それだけ我々の思い出が欠けてしまうということ。マスクフリーの生活が再開するが、これからどんな臭いや香りが漂ったとしても、マスク生活期間の記憶がフラッシュバックすることはないだろうことが寂しい。こればかりは取り返しがつかない。

 

それと同時に、これから再び五感をフル稼働させて日常を味わい、自分の中に取り込める日がやってくる。これまでより一段と豊かな生活が待っていることを楽しみに、前向きに生きて行こうと思う。

ふつうであることの価値

もっと自分をアピールして目立った方が良いよ。

半期ごとにある会社のフィードバック面談で、毎回役員から言われるお決まりのフレーズだ。君は高い成果を上げているが、強いて言えば…という感じで最後の方に付け加えられるのがパターン。そう言われれる度に戒められるのだが、自分の性分を理解しているが故に、正直に言うと諦めて聞き流している。

このアピールするという行為だったり性格だったりをきっかけに、目立たないこと、つまりは「ふつう」であることの価値について整理してみようと思う。結論、わたしは「ふつう」であることはかけがえのない自分の個性であり、これこそが生きる道。だと思っている。

 

かつての「ふつう」とわたし

昔から、わたしは周りから『普通』『優しい人』などのラベルを貼られることがほとんど。友人同士でお互いに毒気のあるあだ名をつけ合うというふざけたゲームをしていた時も、まさに「ふつう」という名を授かり内心ひどく傷ついたことがある。自分の性格の特徴を聞くと、即答できるのは妻ぐらいなんじゃないかと本気で思っている。

それくらい際立った特徴がないのが寧ろ特徴なのだが、周囲から平凡と認識されてることに結構落ち込み、そんな自分が嫌いになることも多かった。周囲に何の影響や刺激も与えられておらず、まるで他人にとっての自分は風景や景色と同化している存在なんじゃないか。いてもいなくても、何も変わらずその場は回り続けるんじゃないか。などの思考が脳内を駆け巡り、ただひたすらに「ふつう」であることがコンプレックスだった。

 

「ふつう」の有難み

しかしその価値観が一変し、自分を正当化できるようになったきっかけは、無印良品のクリエイティブデザインなどを手掛ける深澤氏が書いた『ふつう』という本だ。この本を読んで初めて、「ふつう」であることと正面から向き合うことができた。

ふつう (d BOOKS)

ふつう (d BOOKS)

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本書では、深澤氏が自身の生い立ちや経験を通じて、「ふつう」や「平凡」を否定する傾向がある日本社会について問題提起し、それに対する自身の考えを述べています。彼は、人生において何が重要なのかを見極めることが大切であるとし、「ふつう」や「平凡」であっても、その人の人生にとって価値のあるものであれば、それが素晴らしいことだと主張しています。また、本書では、深澤氏が個人的に尊敬する人物や、彼らが「ふつう」であるとされる中で、どのように素晴らしい人生を送っているかについても言及しています。「ふつう」という言葉に対して多くの人が持つ否定的なイメージを払拭し、平凡な生活の中にも素晴らしいものがあることを読者に示唆する、深澤氏ならではの視点が詰まった一冊です。(ChatGPT)

深澤氏曰く「ふつう」であることの有難みや価値は、非日常の中でこそ際立って感じられるという。例えば、コロナ禍の非常事態宣言下での公園での憩いの風景などがそれに当たる。

結局みんなが戻りたいところ

生きていく中での揺れの真ん中にあるのが「ふつう」

ちょっとつまらないけど安心できる

これは深澤氏の言葉のほんの一部だが、「ふつう」へのお褒めの言葉をシャワーのように浴びることで、まるで自分が周りにからそう思われているかのような錯覚を得られ、前向きに生きられるようになった。「ふつう」であることは個性で、誰でも会得できるものではないのだ。

 

「ふつう」の自分の作り方

果たしてどのように『ふつう』という個性は形成されてきたのだろうか?

わたしは特に思春期に差し掛かった中学生時代から目立つことを避けてきた。当時の友人はやんちゃ坊主ばかりで、そのコミュニティでは「おもろい」もしくは「喧嘩が強い」ことこそが価値だった。自分はどちらの分野もセンスがなく、集団で優位に立つことはなかった。

そんな環境に窮屈さを感じ、本来の明るい自分を出そうと家にいる時と同じ自然体を意識して振る舞った時期がある。違和感を感じて何となく面白くなかったんだろう、ある時に友達から『キャラ変しようとすんなや』と静かに一喝された。図星でドキッとしたのもあるが、親しい友人からの辛辣な言葉はかなりショッキングで、その直前に自分が発したおちゃらけた言葉や、教室内の位置、周りの様子まで鮮明に思い出せる。それ以来、友達といる時は萎縮してできるだけ自分を出さないようにして、定常的に杭を叩かれる形で生活を送ることになる。

 

「ふつう」を研ぎ澄ます

そんな過程を経て、幸か不幸か、可もなく不可もない平民としてのアイデンティティが形成された。自分への嫌悪感や劣等感は深澤氏の本との出会いによって打破された訳だが、今後は自分のポジショニングを熟知し、「ふつう」の個性を究極的に研ぎ澄ましていきたいと思う。

例えば集団の中での自分の存在意義。「○○はすごくまともなのに、友達はクセが強くて変わった人ばかりだよねー」とよく言われるのだが、本当に友人は(良い意味で)クセが強いヤツが多い。そんな中に自分みたいな超絶マイルド人間がいることでバランスが取れて、一体感が出るのだろうか。ハンバーグのつなぎのように、際立った個性に対して自分の関わり方を流動的に変えながら、程よい塩梅の集合体を作る存在なのかもしれない。

こんな感じで自分なりの「ふつうの価値」を言語化しながら、それを強みと自覚して色んな環境を最適化するのが使命なんじゃないかと、本気で思っている。

世の中の引っ込み思案なふつう人間たちよ。ふつうであることに、誇りを持とう。

 

以上!